黄昏に降り来る闇


 一 水に映る(かげ) 1


 昨夜から降っていた雨も今朝方には上がり、登校する頃合にはすっきりと晴れ渡った空 が広がっていた。
 道にはまだ所々水溜りが出来ているが、新緑の木々を揺らす風はからりとして気持ちがよ かった。僕は水溜りを踏まないようにしながら駅へ向かって少し急ぎ足で歩く。今日の一 時限目は体育。
 何で朝っぱらから運動しなきゃならないのかと少し嫌な気分だったのだが、この気候なら 心地よく出来るだろう。ただ惜しむらくは運動場はまだ濡れているだろうから、外で直接 風を感じながらの授業はできないということ。
 多分バスケになるはずだ。
 今は入梅前の一番気持ちのよい季節なのに、外で走り回れないのは少し残念だ。大して運 動が得意でもない僕でさえそうなのだから、体育が大得意の庄司なんかは悔しがるだろう な。そういやあいつは陸上部だったか。去年は一年のくせにもうちょっとでインハイまで 行けそうだったもんなあ。

 そんなことを考えながら歩いているうちに、駅へついてしまった。
 この時間はそう混雑はしていない。
 とはいえ、もちろん座れないから僕はさっさと改札を抜けてちょうど入ってきた電車へ滑 り込みつり革を握った。
 周囲を見回して、誰か友人が乗っていないか確認する。
と、視界の端に映ったのは少し離れたところに立っている人の横顔。
 あ、と思った。
 見事なまでに周囲に人が居ず、ぽっかりと空いたエアポケットのような場所の中心に、彼 女は居た。
 御神楽凛子だ。
 相変わらずの無表情だが、やっぱり綺麗だった。しかし、やはりその雰囲気に圧倒されて か、乗客は皆遠巻きにしている。少し離れたここから見るその風景は、ちょっと滑稽だっ た。僕は思わずくすりと笑ってしまった。それはまるで、学校での彼女の周りの風景とま るっきり一緒だったから。
 不意に、彼女がこちらを向いた。目がばっちりと合ってしまう。
 心臓が急に跳ね上がった気がした。ほんの数秒だったが、僕には永遠にも感じられる時間 が過ぎ、僕の心臓が悲鳴を上げ始めた頃、僕の目は信じられないものを映していた。
 御神楽凛子の笑顔。少し口の端っこが上がったような皮肉っぽい表情だったが、間違い なく笑顔だった。僕は少しうろたえて周りを見回してしまう。でも僕のほかには周りには 学生らしき人は居らず、彼女の表情に答えているような人物も見当たらない。びくびくし ながらまた視線を戻すと、彼女は下を向いていた。肩が震えているようにも見える。
 もしかして、これは笑いを堪えているのか? そうか、僕は笑われているんだ!

 今度は僕が下を向く番だった。自分でも顔がゆでだこのように真っ赤になっているのが 分かるくらい、頬が熱かった。何てことだ。自分がものすごい失態を演じてしまったよう な気分だ。よりにもよって彼女に笑われるなんて……。
 しかしそこではたと気づいた。御神楽凛子が笑う。ありえないことだ。
 今まで僕は彼女が表情を変えるのを見た事が無い。それどころか、学校の奴らだって無い だろう。これは……もしかしてラッキー、なのか? いや、しかしこれを庄司あたりに話 したとして信じてもらえるかどうか……。ついに幻覚を見るようになったか! とでも馬 鹿にされそうだ。一人でぐるぐると考えに耽っていると、耳元で何かがうごめく気配がし た。ぱっと顔を上げると至近距離にあるのは、訝しげな表情の御神楽凛子の顔。
「何で一人で百面相してるんだ?」
 相変わらずの綺麗なアルトで彼女は言った。僕は情けなくも動揺してずざざっと後退って しまった。
 初めて向こうから話し掛けてくれたのに、僕の馬鹿馬鹿馬鹿〜!! 居た堪れなくなって ちらりと表情を伺うと、彼女は腹を抱えて笑っている。……ほんと、こんな彼女は見たこ とが無い。ほけっとして見つめていると、目じりに涙を浮かべた彼女は僕の顔を見るとま た笑いの発作が起きたかのように馬鹿笑いをしていた。
 ああ、情けない僕……。好きな子に話しかけられて、答えを返すことも出来ずただ笑わ れるだけなんて……。消えてしまいたい……。いっそ、ここから逃げ出してどこか遠くへ 行ってしまおうか。いやそれとも僕以外の皆がいなくなれば……。

 ばすん! 唐突に、車内にありえないくらいの衝撃音が響き渡った。
 僕は何故だか尻餅をついていて、御神楽凛子を見上げる体勢になっている。彼女は通学か ばんを振り下ろした状態。ああ、僕は彼女に殴られたんだ、なんて理解できるほどの思考 が戻ってきた時には、すでに僕は知らない駅のホームに降り立っていた。左腕を彼女に引 かれた形で。僕は本当に、全然訳が分からないまま彼女に腕を引っ張られて改札口を後に していた。

 どれくらい腕を引っ張られたまま歩いただろう。見慣れない通りを抜けて、細い路地を すり抜け、住宅街を突っ切り、僕らは小さな児童公園の中を歩いていた。なにやら声を掛 けづらい雰囲気だったし、それに……僕は彼女に絡め取られた左腕を離して欲しくないよ うな、でも恥ずかしいから離して欲しいような……そんな相反する葛藤に苛まれてイッパ イイッパイだったのだ。それに、こんなに女の子と密着して歩いたことなんかない僕は、 時々風にあおられて彼女の長い髪が僕の鼻先に掛かったりするだけでドキドキして何にも 考えられなくなってしまう。
 でもこのままじゃどこへ行くのかも分からないし、学校はどうするんだろう。不安にな った僕は思い切って声を掛ける事にした。
「あの、み、御神楽さん」
 まるで彼女は螺旋の止まった玩具の様にぴたっと止まった。腕をつかんだ状態のままくる りと振り向く。僕の目を見たとたん、こわばっていた彼女の表情が和らいだ気がした。多 分僕の気のせいだろうけど。
 腕を放し、僕のほうを向き直ると、彼女は盛大にはぁーと溜息をついた。
「橋詰、正気に戻ったか……良かった」
 は? 僕はいったい何を言われてるんだろう。彼女が僕の名前を呼んだことにもちょっと びっくりしたが、言われた意味の方が分からなかった。僕の顔にはきっと疑問符がいっぱ い浮かんでいたのだと思う。視線を返した僕に、今度は彼女の方がうろたえる様にギクシ ャクとした態度になった。
「あ、いや、分からなければいいんだ。気にするな。うん、ほんの些細なことだ。お前が 気にするようなことじゃない」
 ……思いっきり気になるんですけど。というか、内容もさりとて彼女の言葉遣いが男の ようなのも気になった。普段はこんな感じでしゃべるんだ、何時もは一言二言しか口にし ないから分からなかったなあ。じっと見つめているとますます彼女の態度がおかしい。
「いや、まあ、なんだ、その。悪かったな、急に殴ったりこんな場所に連れてきたり…… 。別にお前に対して悪気がある訳ではないんだ。ただ、ほら、そう! 急に授業を受けた くなくなったというか、いい天気なんでどっか行こうかな、とか思ったりしたというか… …」
「凛子、それじゃ不審者だよ。もうちょっと何か言いようがあるだろう」
 突然降ってわいたような第三の声。気がつくと、御神楽凛子の隣に男が立っていた。
 シルバーに染めた髪と、今時のにーちゃんって感じの服装。ものすごい美形なのに口の端 を歪めるような笑いのせいでちょっと怖い。
 ……っていうか今、誰もいなかったよな? それにこの男、御神楽の名前を知ってる。知 り合いか?
「……千尋、わたしに気の聞いた言葉を求めるなんてお前が間違ってるぞ。それに居た のなら何とかしてくれればよかっただろうに」
 拗ねたような表情の彼女はいつもより幼く見える。こんなおかしな状況なのに、彼女のこ とを可愛い、なんて思ってしまう僕は重症だ。
「俺がそんなに凛子を甘やかすわけがないだろう。それに、まだまだ甘いな」
「何がだ?」
「ついて来てるぞ。この程度の輩に手こずるとは凛子もまだまだだねぇ」
 その言葉を聞いたとたん、御神楽の表情が変わる。
 いつもの凛とした表情の、僕らが知っている御神楽凛子よりももっと厳しくて、美しい、 僕の知らない御神楽凛子、だ。
 一歩前に出た彼女は、まるで僕を背に庇うようにして立っていた。
「橋詰、訳が分からんと思うがしばらく我慢して言うとおりにしてくれ」
 僕はぽかんとしながらも、ほかならぬ彼女の頼みに、こくこくと頷くばかりだった。

Prev Index Next

Novel Home

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送