黄昏に降り来る闇


 一 水に映る(かげ) 2


 僕の前に仁王立ちしている御神楽凛子をそっと体をずらして窺ってみると、その横顔は まっすぐ公園の入り口を見つめていた。いや、睨み付けているといっていいほどの鋭い眼 差しは、少しの緊張と多くの猛りを含んでいるように見える。その異様な雰囲気に圧倒さ れた僕は、指一本動かすことが出来なくなってしまった。
 いったい何が始まるんだろう。分からないながらもひとつだけ確かなことは、僕が今ま で経験したことのないことがこれから起こるだろうということ。僕はただ、御神楽の背中 と鋭さを宿した横顔を見つめることしか出来なかった。
「……少年、黙ってそこで固まってろ。くれぐれも凛子の邪魔するんじゃねぇぞ」銀髪の 正体不明の男が、わざわざ僕の耳元まで寄って来て小さな声で呟いた。僕は何も知らず、 また出来ないであろうことを思い知らされたような気分になって、いつもならそんな風な 扱いを受けたとしても黙っていられたはずなのに、ついつい口を返してしまった。
「一体……何がどうなっているんですか。それに、あなたは御神楽さんの何なんです?」 にやり、と底冷えのするような笑いを浮かべた男は僕ではなく御神楽のほうへ向き直り呟 くように言った。
「俺は……凛子の保護者だよ」
「千尋、余計なことをしゃべるな。気が散る」
「へいへい。それよりそろそろ来るぞ」
 二人の遣り取りにつられて僕もついと視線を公園の入り口の方へ向けた。誰もいない、 と思ったのもつかの間、たくさんの人影が固まって歩いて来るのが見えた。
 それは異様な光景だった。僕たちのように制服を着た学生や、スーツ姿のくたびれたサ ラリーマン。若いのも年をとったのも女も男もいたが、それらが隙間なく一塊になって行 進するようにこちらへと向かってくるのだ。まるで一つの意思を持った生物のように。皆 一様に猫背でその眼には意思の煌きというものが感じられない。僕は思わず小さく悲鳴を あげてしまった。はっと気づいて、御神楽に聞かれてしまったのではとそちらを窺ったが 彼女は僕になんて構っていられないという雰囲気だったので少し安心した。かっこ悪いな 、僕は。
「……めんどくさいことになってるなあ、オイ」銀髪男が面白そうにいうと御神楽は盛大 な舌打ちを披露した。僕は今日何度目かのありえない御神楽をまた見てしまった……。
「ご丁寧に肉体を纏ってる。どうやら質より量派みたいだな……。わたしには肉を絶つこ とは本来は出来ないけど……数が数だけに怪我させないようにするのはちょっと骨だな。」
「おお、珍しく弱気な凛子さんだね〜。もしかして俺様の出番かな〜?」
「……いや、いい。お前が出てくるとややこしくなる」
 本当に何気ない日常の遣り取りのように思えるが、異様な集団はすぐ側まで迫ってきて いる。僕はそんな軽い遣り取りのおかげか恐怖は感じなかったが、興味津々というわけに はいかなかった。何しろやってくる人々の眼が尋常じゃない。何かこういうゲームがあっ たような……そう、ゾンビが集団で襲ってくるやつだ。あれは敵がいかにもゾンビです、 という風貌だったが、現実に迫ってくる人々は皆ぴっちりした格好でいるだけに余計違和 感を感じる。
「さて、やるか。橋詰、もうちょっと下がっててくれ」
「凛子凛子、俺は〜?」
 返事をしかけた僕はちょっとずっこけた。なんて能天気な男だ。
「千尋は黙って口閉じてろ!橋詰、すまん……」御神楽は僕にすまなそうな顔をすると、 すぐに敵と呼んでもいいだろう集団に向き直り一歩前へ踏み出した。

 だん、と音がするんじゃないかというくらい強烈な一歩を地へ打ち付けるとそのまま低 い姿勢で走り出す。まるで飛んでるみたいだ。
「少年、見てろ。凛子が舞うぞ。謡うぞ。俺以外誰も見たこともないものを見せてやるん だ。光栄に思えよ」いつの間にか銀髪男が僕のすぐ横にしゃがんでいた。その眼は御神楽 を見ていた。彼女だけを。何故だか僕は少し複雑な気分になってそのおちゃらけた態度の 裏に見え隠れする真摯な瞳を覗き込んでいた。ああ、僕は一体今何を見ているんだろう。 深い深い水底か、それとも天に広がる深淵の闇か……。
「こら、俺の方ばっか見ててどうする。思わず男も見とれるイケメンなのは分かってるか らさっさと凛子の方見やがれ」顔を両手でぐいっとはさまれて強制的に視線を逸らされた 。その先にあるものは。圧倒されるほど強烈な御神楽凛子という存在の認識。
 長い髪をたなびかせ、襲ってくるサラリーマンを弧を描く動きで紙一重でかわすと、そ の場に居るまま摺り足で円を描いて回転しながら優雅に伸ばした腕をふわりと降ろし、指 先でとんっと突く。いつの間にか両手の小指の先には赤い糸で括られた小さな鈴がついて いた。その鈴がりん、と鳴った瞬間サラリーマンはそのままの姿勢で崩折れる。またすぐ に別の若い男が御神楽に迫ってきたが、人間業とは思えない動きでかわし同じように鈴の 音と共にその男を難なく倒していた。その口元は静かに何かを紡いでいる。低い、小さな 声でまさしく謡っているのだ。よく聞き取れないのは声の小ささだけではなさそうだ。ど うやら古語らしい。僕はあまり聴いた事はないのだが、能の地唄に似ているのかな、なん て思った。そういえば舞う姿も少し似ているような気がする。舞といってもダンスとは違 う。足を振り上げたり手を高々と上げたりといった急激な動きはなく、緩慢にも思えるが いつの間にか違う場所に居るような、そんな舞。足も摺り足で、公園の土で出来た地面に はくっきりと御神楽の足跡というか摺り跡が複雑な文様を描いて残っていた。弧を、螺旋 を描く摺り跡は決して直線的ではない。まるで魔方陣のようだ。そしてそれを描く人は、 セーラー服を風にはらませ、長い髪が複雑な動きに揺れて、美しくそして畏怖すべき存在 としてそこに居た。
「御神楽……綺麗だ……」僕は思わず溜息と共に呟いていた。
「当たり前だろ。御神楽が生み出した最高の舞手だ。そしてこの俺がついている。これ以 上の存在はないのさ」男は自分が褒められたかのように相好を崩して言った。そういえば この男は御神楽のなんなのだろう。顔はまるで似ていないから血縁ではなさそうだけど。
 僕は改めて御神楽の姿を目で追った。確かに全く似ていない。双方とも美しいと形容で きる容姿だけれど、共通点はなさそうだ。花にたとえるとすれば御神楽が静かに、そして 凛として咲く月光花なら、この千尋と呼ばれる銀髪の男は大輪の薔薇ってところか。髪の 色から連想するのは白い薔薇だけれど。……男が花に詳しいのは悪いことではないよな、 なんて言訳めいたことを考えていたらいきなり小突かれた。
「何一人で赤くなってんだよ。まさか凛子をネタにいかがわしいこと考えてたんじゃねー よな?」……前言撤回。薔薇なんて高貴なもんじゃない、この男は。その辺の雑草で十分 だ。
「何言ってるんですか。あなたこそ御神楽についている、だなんて。未成年は条例で守ら れてるんですよ?おかしなこと言うと訴えますよ」僕にしてはかなり強気に出たのだが、 鼻で笑われた。悔しい!
「ほら、今一番舞が盛り上がるところだ。変な想像してねぇできっちり見てろ」言われて 僕も身を入れて御神楽を見守ることにする。相変わらず美しい軌跡を描いて彼女は舞って いたが、まだ敵は半分ほども残っている。しかし、彼らも大分数を減らしたことを悟った のか、いきなり方向転換しばらばらだったのがひとつの固まりになった。そして一斉に御 神楽に殺到し、円陣のように御神楽を囲んだ。
 僕は声を上げる間もなかった。囲まれ、逃げ場のなくなった御神楽に襲い掛かる十数本 の腕につかまれる瞬間、だん! と地響きが起きた。御神楽が足を踏み鳴らしたのだ。続け て、だん、だん、と数回踏み鳴らすと、敵は風圧に飛ばされるようにばたばたと倒れこん だ。それと共に謡いも大きくなる。両手は優雅な動きで揺らめき、鈴がりん、りん、と断 続的に鳴る。そして御神楽は回った。回るたびに、起き上がって掴もうとしている腕をす り抜けながら指で小突き、平手を打ち付けて敵を倒してゆく。御神楽の周りには瞬く間に 敵の残骸が折り重なり増えていった。そして最後の敵がすばやい動きで御神楽を捕らえよ うとする。御神楽は信じられないような素早さで、飛んだ。両足で、どだん! と着地した 所はその敵の背後。大きく謡いながら、静かに指で背中を突く。ゆらり、と揺らめくよう に敵は力なく倒れていった。謡いが静かに、小さくなり、そして消えた。僕は、緊張から 解放されたかのように大きく溜息をついた。御神楽も、ふうと息を吐き、ゆっくりとこち らに向き直る。汗ひとつかいていない。僕たちの方へ、ゆっくりと歩いてくる。その表情 は今まで見たこともないほどの満面の笑みだ。僕は彼女を迎えるためにゆっくりと一歩を 踏み出した。
「橋詰!危ない!」いきなり御神楽が叫んだ。何が? もう敵はいない。君が倒したんじゃ ないか。そう言おうとしても声を出す暇もなかった。いつの間にか背後から、やってきた 小さな少女。その目は今まで御神楽が戦っていた人々と同じ、光のないどんよりとした眼 差し。手には……信じられないことに少女の手には大きすぎる銀色に光る刃物が握られて いた。その銀色の刃物は今にも僕の横腹に吸い込まれようとしている。だが僕にはなす術 がなかった。銀髪男も油断していたのか、手を僕のほうへと伸ばしているが間に合わない 。ああ、僕は刺されてしまうのか。
 どん! と急に大きな音が僕の途切れそうな意識を呼び起こした。僕は何故だか倒れこん でいる。痛みなんて感じなかった。ぼんやりとした意識で腹をまさぐると、すぐ側にナイ フが落ちていたが、刺されたような痛みや血の感触はない。が、僕は全身ずぶ濡れになっ ていた。水だ。血ではない。ふと脇を見やると、どこの公園にもある水飲み場が破壊され てむき出しになった水道管からじゃばじゃばと水が噴出しているのが見えた。ああ、そう か、あの水が僕に掛かったんだ……でも何でいきなり……。僕の数メートル横には同じく ずぶ濡れになって倒れている少女。意識はなさそうだ。多分破壊された水飲み場から大量 に噴出した水をまともに被ったんだろう、僕以上に濡れていた。でも怪我はなさそう。良 かった……。
「橋詰!大丈夫か!」御神楽が走って僕を抱き起こしてくれた。だが僕はなんだか体に力 が入らない……。
「千尋!お前油断してたな!くそ、もっと早く気づいていれば……」
「凛子、少年刺されてないぞ。その前に水が噴出してガキを吹っ飛ばしたから」
「な、お前がやったのか?だがもうちょっと穏やかなやり方が……」
 言い争ってる二人を尻目に、僕は完全に意識を手放しかけていた。なんだかふわふわす る……せっかく御神楽に抱き起こしてもらってるのに……もったいない。もっと感触を味 わいたいのに……。
「おい!橋詰、しっかりしろ!お前刺されてないんだぞ。おい!」
 僕は頬を叩かれているらしいが痛みすら感じることはなかった。すうっと目の前が暗く なる。ああ……本当に僕はもう意識を保っていられない……。目の前がすっかり暗くなる 前に揺らめく青い光が僕の意識を包んだ。なんだろう?あたたかい。とても冷たいはずな のにあたたかい気がする。そして全てが途切れる一瞬前、声が僕の中に響いた。
「まさか……銀鱗丸か……」
 それは、あの憎たらしい銀髪男の声だった。
 そしてそれから僕は、深い暗闇の中へ落ちていった。

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