黄昏に降り来る闇


 一 水に映る(かげ) 3


 誰かが呼ぶ声がする。誰だろう? 僕を呼んでいる……いや、でも呼んでいるのは僕の 名前じゃないみたいだ……。誰? 誰を呼んでいるんだ? ああ……目の前に広がる闇か らやってくるのは……青い光。冷たい水の揺らめきにも似た冷たくてそしてあたたかな光 ……。声はそこから聞こえてくる……。誰を呼んでいるの? 呼ぶ声と共に聞こえてくる のは雫の音。ぽたん、ぽたん、と規則的な、まるで鼓動にも似た音。それは命の音。呼ん でいる。僕を呼んでいる。僕の名前じゃなくても、それはきっと僕のこと。ああ……行か なくては。
「……さま……雪乃様……」
「僕を呼んでいるのは、誰?」

 目覚めると目の前には見覚えのない天井が広がっていた。かなり古い木で出来た天井で 、所々に年月を感じさせる染みが広がっている。ぼんやりしながら額に手をやると、濡れ タオルがあてがわれていた。状況がさっぱり分からなかったのでとりあえず周りを観察し てみることにする。十二畳はありそうなだだっ広い和室のど真ん中にしかれた布団の上で 僕は寝かされていた。頭の上には床の間。左手側は襖で次の間がありそうだ。右手側には 障子が張られていて多分縁側のようになっているみたいだ。時刻は夕方らしく、暮れかけ た日差しが入ってきているので雨戸なんかは閉まってなさそう。僕は半身を起こしこうな る以前のことに思いを馳せてみた。ええと……今朝はいつもどおり家を出て……電車に乗 って……そうだ、御神楽と会ったんだ。そして……。
「ああ、お起きになられましたか。もう、よろしいんですの?」
いきなり障子が開けられて聞いた事のない声が僕に向かってかけられた。人の気配なんて しなかったのに……。びっくりして振り向くと、妙齢の美女が桶を持って膝をついていた 。ええと……どなたでしょう? さっぱり状況が分からないんですが……。僕はついつい 分からないながらもえへら、と美女に向かって愛想笑い。ええ、まあ、体って……なんと もなさそうだけど、それよりここはどこですか? そしてあなたは誰? 口に出そうとす る前に、開けてあった障子の方からなにやら騒々しい音がする。どかどかどか、と地響き が。足音?
「橋詰!起きたそうだな。どうだ、どこも何ともないか?頭はしっかりしてるか!?」  部屋に入ってくるなり僕に駆け寄り、両肩を掴んでがくがくと揺さぶられる。……御神 楽……それじゃ気持ち悪くなっちゃうよ……。
「凛子様、それでは橋詰様がまた気を失ってしまいます。どうか御放しに」聞いた事のな い声パート2は若いんだかそうでないんだか分からない男の声。御神楽の揺さぶりからや っと解放された僕は、くらくらしながら現れた新たな人物に目を向ける。……いや、これ また美男なんだけどさ。その前の美女もそうなんだけど年齢が分からない……若そうなの に老成されてるというか……。っていうか、ほんと誰? 御神楽の関係者だろうとは思う んだけど。僕の顔に盛大な疑問符が浮かんでいたんだろう。美男は苦笑しながら自己紹介 を始めた。
「わたくしはこちらの凛子様と千尋様に御仕えさせて頂いている (よく)、と申します 。こちらは同じく(れん)。 どうぞお見知りおきを」僕は、あ、こちらこそ、なんてちょっと畏まって挨拶を返したけれど……なにやらすごく時代がかった挨拶で、おまけに御 仕えさせて、ときた。どうやらここは御神楽の家らしいということが分かったけれど…… うーん、お手伝いさんか何かかな……若そうだけどそういう職業だから年齢不詳に感じる んだろうか。
「わたしの家族だ。そんなに畏まらなくていいぞ。あ、ちなみにここはわたしの家だから 気にしないでゆっくりしてってくれ。何なら泊まってくか?」な、何てこと言い出すんだ 〜! きっと僕は思いっきり赤くなってたんだろう。顔が熱い。連さんがくすくすと笑っ ていた。御神楽は……うーん、不思議そうな顔だ……。
「い、いいいいや、そんなにお世話になるわけには……!ぼ、僕はもう大丈夫ですからそ ろそろ帰りますんで……」大丈夫、と口に出したことで、はっ、と思い至った。何で僕が こういう状況になったのかということに。そう、僕は到底信じられないような状況を見た んだった。舞い、謡う御神楽が立ち向かっていたものたち。多分あれは見た目は人間だけ ど、中身はそうじゃなかった。何なのかは分からないけれど、普通じゃなかった。僕は俯 いてた顔を上げ、御神楽にまっすぐに視線を合わせた。
「……御神楽さん、今日あった事だけど」僕の真剣な態度に、御神楽も居住まいをただし まっすぐに僕を見る。その瞳に浮かぶ表情は少し翳っている。気のせいかもしれないけれ ど。御神楽はうん、と返事をして視線を外さないまま僕の次の言葉を待っている。なんだ か互いに互いの瞳の奥を探り合っている、そんな感じ。ふと、僕は御神楽と相対している のに物怖じしていない自分に気がついた。思わず笑みがこぼれる。そんな僕を見て御神楽 の方といえばぽかんとした表情に。そりゃそうだ。真剣な話をしているのにいきなりこん な顔されたら。あわてて取り繕おうとしたけど、もう無理。しょうがないな、僕は。苦笑 と共に僕は少し脱力する。なんか、すごいことがあったはずなのにそれよりも御神楽との ことのほうが僕にとっては大きいらしい。なんかどうでも良くなってきたんだけど、とり あえず言葉を続けることにする。
「ええと、今日見たことは現実にあったことだよね?僕が頭ぶつけて夢見たわけじゃない と思うし。あれは一体なんだったのかな?」
「あれは夢だ、幻だ〜なんていったら信じるのか?少年」……来ましたよ?僕の天敵決定 の銀髪男が。思わずきっ、と睨み付けると障子にもたれかかってこっちを見てニヤニヤ笑 ってるあの男はわざわざ顔を両手で挟んでムンク状態の顔をして見せてきた。に、憎たら しい!
「そんなわけないじゃないですか。もちろん普通ではああいうことはありえないことだっ て言うことは分かってますけど……でも僕はちゃんとこの目で見たんですから。夢かそう じゃないかの区別くらいつきますし、夢だっていわれても信じられません」
「ふん……なら少年。今日あったことを説明したとして、それを現実と受け入れることが 出来るのか?」僕はもしかしたらこの男に上手く嵌められようとしているんじゃないだろ うか。そんな思考が一瞬僕をよぎった。ふと、御神楽を見ると彼女はじっと僕を凝視して いる。やっぱり少し不安そうでもあり、いつもの無表情でもあるように見えるけれど…… 僕の視線を受けた彼女はらしくなく視線を外し、じっと自分の膝の上においている手を見 つめている。ああ、彼女は不安なんだ。きっといわゆる普通の現実といわれる事象の外側 に身を置いているということを彼女自身とてもよく知っているだろうから。誰も彼女の舞 を見たことがないということは、誰も彼女の本当を知らないということ。……ここにいる 僕以外の「家族」と彼女が呼ぶ者たちの他には。
僕が何故、彼らに真実を話させるような存在になろうとしているのかは分からないけれど ……でも僕は彼女の舞を見てしまった。謡いを聴いてしまった。彼女の本当の姿を一部分 ではあるだろうけれど、垣間見てしまった。
 僕はもっと彼女のことが知りたい。笑ったり、怒ったり、慌てたり……無表情で人を寄 せ付けない彼女とは違う、真実の御神楽凛子が知りたかった。どんなに現実離れしていよ うとも、それが御神楽凛子という人の真実であるならば、それでいい。僕は知らず、微笑 んでいた。御神楽がはっと息をのむ気配で、それを自覚した。きっと僕は今までどんな時 よりも穏やかな顔で御神楽を見ているんだろうな。それが嬉しかった。その微笑をまっす ぐに御神楽へ向ける。御神楽も、僕を見ていた。
「……僕は、自分の眼で見たものを信じます。それがどんなに現実離れしていようとも、 僕が見たものには変わりありませんし。自分の見たものが到底信じられないものだったか らといってそれをすぐさま否定するのは僕の……なんというか流儀ではない、というか… …。上手くいえないけれど、分からないことや信じられないことがあっても、それをすぐ さま否定するのは違うと思います。分からない、信じられない、そういうことがあっても いいと思うんです。そこから考えたり、知ったり、判断したり、そういうことがきっと出 来ると思うから」
「流儀と来たか……若いくせにずいぶんと難しい言葉を知ってるな。ふん……まあいい。 ……だが、もしもその分からないことってやつがどうにも理解できないものだった場合は どうする?否定しないで考える、判断するっていうのは言葉では簡単に言えるが理解の範 疇ってやつが世の中にはあるんだよ。その時お前はどうする?」僕はきっと試されている 。この銀髪の一見ふざけたように見える男に。この男は、何よりも御神楽のことを大切に 思っている。僕には分かる。僕の言葉がどうであれ、御神楽の為になることを優先するだ ろう。御神楽の意思とは関係なく。僕はごくり、と唾を飲み込んだ。僕は、僕の全てを… …そう、僕の中の真実を明らかにしなくては。ものすごく深入りすることになるだろうけ ど……そんなの構いやしない。僕の中での御神楽は、たった今日一日で何倍もの大きさを 占めるようになった。御神楽の中での僕もそれぐらいとはいわなくても、認識してもらえ るようになるんだったら、僕は恐れるものはないはずなんだ。少し緊張して、ぎゅっとこ ぶしを握った。そして、銀髪男、千尋のその深淵を思わせる瞳をまっすぐ見る。
「分からなければ、それは分からないこと、としてそのまま受け入れます。理解できない ものであっても、目の前にあることはそれはまた真実だと思うから。僕がどう思おうと、 どうしようとそれはそこにあるはずです。だから……ええと、なんというか……見なかっ たこと、なかったことにはしたくないんです。たとえ全部は理解できなかったとしても」
 千尋は、ふっと小さく笑い、堪えきれない、というようにくつくつと笑い続けた。それ は僕が知ってる限りの彼の笑いとは違って、皮肉っぽかったり馬鹿にしたりといった笑い ではなかった。
「……だとさ。どうする?凛子」
「わたしは最初からきちんと話をするつもりだったぞ。……橋詰には聞く権利があると、 そう思っていた」御神楽は、そう、とても晴れやかな笑顔で言った。そして小さな、本当 に小さな声でありがとう、と呟いた。それは僕に向けてのものか、千尋に向けてのものか 分からなかったけれど、僕は胸の中に広がる暖かいものを感じてますます御神楽への想い が大きくなったことを知った。僕は、まだよく知らないこの人のことが好きだ。とても好 きなんだ……。
「ではまず、俺から話そう。今日の出来事が一体何だったのかを」
 僕は、居住まいを正して千尋の次の言葉を待った。

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