黄昏に降り来る闇


 一 水に映る(かげ) 5


 髪も肌も真っ白な妖魔は、その美しい(かお) に似合わず大仰な身振りで、伝統芸能で見られる ような昔の貴族が着ていた衣装の大きく広がった袖を目頭に当てて、雰囲気たっぷりに よよよ、と嘆いた。
「……な、何と言うことでしょう……都に聞こえた御神楽の若頭領、天禰(あまね) さまと言えばその辺りの貴族の娘共が恥じ入るほどの美々しいぬばたまの御髪(おぐし) と言われておりましたのに……ご心痛如何ばかりか……。それはさておき、何ですか。 そのそこいらの雑色(ぞうしき) すらせぬ様な散切り頭とは……この銀鱗丸まことに嘆かわしゅうてなりませぬ。 御神楽の御家の者共、ならびに先祖の方々になんと申し開きをしてよいか……」
 ……何言ってるんだろう、この妖怪。言ってる意味は僕にはさっぱりだったが、「御 神楽の若頭領」と言うのだけはちゃんと聞こえたし、唯一僕にも意味が分かる事だった。 これは千尋に向かって言ってるのは確かだから……ええ!? どういうことだ?
 白妖怪はまだぶつぶつと小言らしきことを言っていたが、何せその容貌とまるで神社 の神主さんのような古式ゆかしい衣装とあいまって、まるでお能か歌舞伎の役者さん のようだった。動きも大仰だけど優雅な感じで……僕はなんだか呆然とこのおかしな 妖怪を見つめてしまっていた。
「……銀鱗丸よ、お前どの位寝てたんだ。寝ぼけも大概にしないといい歳なんだから 本格的にボケたと思われるぞ。それに、今俺は千尋と名乗っている。その名はとうに 捨てた名だ。呼ぶな」
 千尋の静かだが有無を言わせないというような声で、僕自身もはっと我に返った。
「……千尋さま、と(おっしゃ)るか。 御神楽の御家は……ああ、思い出しましたぞ。そうでしたな、彼の者との戦いの後に わたくしめを雪乃さまづきにされて御家を御離れになったのでございましたな……。 御館様が行方知れずになられて後、御神楽はだんだんと(すた) れていったと聞いておりまする。あれから如何ほどの時が流れたのやら……」
「千年ほどだ。俺が家を出てからな……。それよりお前は何故この餓鬼にく っついてるんだ?もうとっくによぼよぼになってどうにかなったかと思っていたが」
 ええ!?……この餓鬼って……僕のことだよな? このおかしな白妖怪が僕にくっつい てたって? どういうことだろう……。なんだか本当に話しに付いていけない……。
「……この餓鬼、とは?はあ、この者でございますな。ええと、わたくしは……雪乃 さまとともにありましたが……ああ、そうでございます!雪乃さまが長じた頃、突然 御館様をお探しになると言ってわたくしを供に旅を始めたのでございます。西へ向か う船に乗り込んだところ、海賊の襲撃に遭いまして……」
「遭って、どうした!?まさか……」珍しく千尋が慌てている。……雪乃って誰だろ う……どっかで聞いたような名前だけど……。
「返り討ちにした後に、そこの頭領の跡取りと恋仲になり、 夫婦(めおと)になり申したので す。御子が八人も御生まれになりまして、それはもうご立派な御母君でありました。 それどころか、ごろつきだった者どもを取りまとめ、国中に聞こえるほどの水軍に 仕立て上げ、戦となればわたくしとともに船に乗り、それはもう男衆顔負けの働き 振りで。何しろこのわたくしめが居りますれば潮を読み天候を読むことは造作もない こと。さらにはそのお力を持って数々の妖どもをばっさばっさと斬り倒し、民からは 夫君の頭領よりも慕われるほどのお方でございました」
「………………」
 千尋が絶句している……。この妖怪、変だ。千尋をここまで黙らせるとは変を通 り越しておかしい。本人、いや本妖はもう芝居気たっぷりに身振り手振りを交えて 熱演してるんだけど、空気が、空気が寒い……。
「俺はなぁ、銀鱗丸よ。どうしてお前がこいつについているのかを聞いているんだ。 雪乃の話は後で聞こうと思っていたんだよ!べらべらとしゃべりやがって。……し かし、雪乃……なんつう人生を送ったんだ……」はぁ、と千尋が珍しくため息。 ほんとこの男をこんな風にしてしまうこの銀鱗丸ってやつは一体……。
「やはり血でございましょう。なんといっても雪乃さまは御館様の血を色濃く継いで おられるお方。それはそれは素晴らしいお方でございました。それで、わたくしが 何故この御子についているかと言えば……はて?何故でございましょうね?」
 凍った。完全に空気が凍り付いている。僕はいつ逃げるべきか、そればかり考えて いた。だってさ、この空気痛すぎるんだよ……。
「…………!!俺を馬鹿にしているのか?銀鱗丸よ!それとも耄碌(もうろく) して俺の問いすら解らぬか!」千尋がついに一喝した。その怒気は、まるで落雷の ように周囲の空気をびりびりと震わせた。実際に、僕の目には見えてしまった。 千尋の体から青白い、と言うか完全に雷と同じ目を焼くような強い光が立ち上って いるのを。僕は怒鳴りつけられた猫の様にびくりと震え固まり、その衝撃が過ぎる と半歩後ずさってしまった。……僕が怒鳴られたわけじゃないんだけど……あんまり にもものすごい衝撃だった。それで、どなられた当の本人はと言えば……ああ、何だ 、この妖怪。ぽかんとしている。こいつほんとある意味すごいや……。そして、そい つは暫らく考えに(ふけ)って いるようだったが、またしゃべりだしたときと同じように唐突に口を開く。
「いえ……お気に障ったのならご容赦を。何しろ大分眠っておったようで記憶もおぼろ げにしかございませぬゆえ。順を追わねば出て来ぬのでございます。何故この者の中 で眠っておったのやら……ああ、……そうでした。雪乃さまご臨終の床で交わした 最後のお言葉のせいでございますな」ぽん、と拳を手のひらに打ち付けて、合点が いった、と言う風に妖怪は言葉を紡いだ。
「雪乃の……最後の言葉?……話してみろ」
「はい。雪乃さまは御子様八人、御孫様は両手足に上るほど、曾孫様も何人か居ら れるほどの頃まで長生きされて大往生でしたが、臨終の床、わたくしにこう申され たのです。……一度でいいから御父君にまたお目に掛かりたかった、と。ですから わたくしはお約束申し上げました。御孫様か曾孫様か、もしくはもっと(すえ) のお方となるか分かりませぬが、いつか必ずや雪乃さまの血をお引きになった方と 御父君とをお引き合わせいたします、と」
 その言葉を最後まで聴く前に、千尋の表情が目に見えて変わった。怒気を現す光も 弱まり、そして消えた。銀鱗丸は話を続ける。まるで夢を見ているような顔で。
「それからは暫らくは雪乃さまの血をお引きになった方と共に御館様をお探し申し上 げたのですが、一向に見つからず。そのうち、雪乃さまの血がだんだんと薄れてまい りまして、お力のほうも弱まってしまわれました。わたくしも力なき方と共にあるこ とは出来ませぬゆえ、だんだんと目覚めている時間が少のうなってまいりました。お ぼろげながらに覚えているのは、雪乃さまの御子孫が生まれると中でも力強き方に自 然と付くようになっていた、ということでございます。その頃はわたくしも殆ど眠り 通しの状態でございましたが、時折力ある方が生まれると目覚めてその方に語りかけ るのです。が、やはりわたくし自身も弱りきっておりましたのでとても届かず、その 方もわたくしには気づくだけのお力もお持ちになられないようで、そのまま一生を過 ごされるのです。そして、もうわたくしは起きている事が叶わなくなってしまってい たのでございます」
 言葉を切った銀鱗丸は、悲しげな表情で千尋を見やる。当の千尋は、なんともいえ ない表情で視線をそらした。本当に、今日会ったばかりなんだけどこんな千尋は見た 事がなかった。その顔に浮かんでいるのは、悲しみか、悔恨か……。話を聞いてい て、僕にもだんだんと事情が掴めて来た。千尋が何者なのか。そして、僕が……何故 力を持っているのか。
「お前、最後に目覚めていた時はいつだ」
「はい、あれは……そうでした。天下分け目の戦が終わってすぐの頃かと」
「四百年ばかし眠っていたわけか……。なるほどな」
 そして、千尋は思い出したように急に僕に向き直った。
「それでお前はこの餓鬼、いや橋詰幸太少年が雪乃の血を引いている、と言うわけ だな」そういい置くと、僕の額に指を当てた。……あれ?今なんか静電気が……。
「はい、間違いございません。このお方は……おお、なんということでしょう。 わたくしが眠りに付く前の主よりも力あり、血も心なしか濃いように感じます。 何よりも雪乃さまの匂いがいたします。橋詰幸太さまと仰りましたか。なんという 巡り合わせ。この銀鱗丸、あなた様に心より御使え申し上げたいと存じます」銀鱗丸 は、僕に向かって跪き手を取った。うわ、半分透けてるのにちゃんと感触がある。 ……すごく冷たいけど。
 しかし……ええと、この妖怪は僕の部下と言うかしもべって事でしょうか……。 ちょっと困って千尋に視線を向けると、真面目な顔で僕を見ている千尋がいた。 ……事情、僕に向けて詳しく話してくれるんだろうか。僕の表情を読み取ったの か、ふ、と笑う。と、そのまま笑いの発作が起こったかのように大声で笑い出した。 でも、僕にはその笑い声が泣き声のように聞こえてしまった。なんだか、とても 悲しい。切ない。
 くくく、と引きつったような声で長い笑いを収めると、千尋はまた僕に視線を向 ける。そして、静かな、とても静かな声で言葉を発した。
「少年、今話してたことで大体の事情は分かったかと思うが……俺は元は人間で、 御神楽の当主だった。ある切っ掛けがあって俺は人以外のもの、妖魔になったん だが……俺には娘がいてな。その時はまだ幼子だった。娘とその母親は御神楽の 家には入れていなかった。まあ、今で言う妾みたいなもんだ。正式な妻は居たが そりが合わなくてな、子も居らず家にも俺は寄り付かず、だったのさ。で、妖魔 になっちまったあと俺は何も言わず家を出て、娘の雪乃とその母親、明乃(あけの) にはこんな体になっちまったからもう帰らないって事を告げて……そし て雪乃には御神楽家の代々の当主の証、守護獣の銀鱗丸をつけた。そして俺は妖魔 として再出発したってわけさ」千尋の独白は、まるで自嘲しているようで……悲し くて痛い。
「勝手な男だよな……。置いていって、そのあとは忘れたわけじゃなかったんだが 、こんな風になってしまった以上、俺が側にいるわけには行かない、なんて。雪乃 が俺を必死になって探している頃、俺は何をしていた?手に入れた力を使い、妖魔 との戦いに明け暮れて、仲間を作り、飽きたら眠りに就いて……。そして、ほとぼ りが冷めた頃のうのうと御神楽に戻ってきて守護獣気取り!」千尋のまるで贖罪の ような告白に、僕はただ黙って聞いているしか出来なかった。それ以外、何が出来 ただろうか。常の皮肉っぽい表情は消え、悲しみと悔恨に彩られた静かなる千尋の 激情を受け止めるには、僕は圧倒的に人生経験が足りなかった。僕の今までの短い 人生、その中であった出来事のなんと平穏であったことだろう。千尋の生きてきた きっと人間としては何倍もの長さの人生を、想像する事すら難しいだろう。理解する なんて事は……今の僕ではきっと無理で、これから経験を積んだとしてもきっと難 しい事なはずだ。
 僕は所在無く、それでも千尋から視線を外すことなく佇んでいた。暫らくの沈黙。 その後ふうと一息吐いた千尋は力なく肩を落とし、ふ、と僕の目を見た。僕の瞳の 奥の奥にあるかもしれない何かを探すように。
「俺は、きっと御神楽……いや、凛子の側にいることで雪乃を護っている気になった のかもしれないな……。……はは、この千尋様がなんて様だ。……お前の血の中 に、雪乃の、そして俺の血が流れてるんだな。」
 僕の血の中に、この千尋の血が流れている。遠い遠い昔の御神楽家の、血。なん だか信じられないけど……もしかしたら、御神楽凛子と同じ立場だったかもしれ ないのは、僕。
「御館様、お嘆きになりますな。雪乃さまは、十分、いえ、それ以上にお幸せであ りました。ただ、御父上である御館様のことをいつも案じておりました。そしてい つか、子供たち孫たちを見せたいと。そう仰っておりましたな」銀鱗丸は、静かに 僕の側に寄り、(ひさまづ) いた。そして千尋に向かって面を上げると晴れ晴れとした声で嬉しげに言った。
「それは、今叶えられたのでございます。今こちらに居られる橋詰幸太様がこの世に いらっしゃる、それこそが雪乃さまがお幸せに生きておられたことの証。この銀鱗丸 、嬉しく思いまする。今この時、(ながら) えてよかったと、心より思いまする」跪き、袖を目元まで引き寄せ、相変わらずの 芝居がかった動作で銀鱗丸は嬉し涙を拭っている。どうもこの妖怪は存在するだけ で周りの空気を変える力があるようで、千尋も先ほどまでの自棄にも似た雰囲気から一 転して、小さくため息をついた。でもそれは、嫌なため息ではなかった。そして、改め て僕に向き合う。
「まあ、そういうわけでお前が力ある人間なのは俺の血のせい、要は御神楽の血の せいだな。大概薄まって何の力もないはずだが、どういうわけかお前に(こご) ったんだろう。考えられるのはお前の両親とも雪乃の血に連なる者で、たまたまお前 に(あらわ)れたってとこか。 そして、これは俺の推測だが、だんだんお前の力が強くなっていったのは、凛子と 接触してお前の中の銀鱗丸が無意識のうちに御神楽の力に反応したからだろうと思 う。そのうちおまえ自身の力もそれと連動して目覚めていった、ってところか」
 なるほど……って、何となくしか分からないけどまあ、納得。
「んで、今日のお前のピンチな。その時に水を操ってお前を助けたのは銀鱗丸だ。 半分以上寝てたとは思うがな。銀鱗丸は水を力の源とする。お前、水に縁はない か?」
「水、ですか。ああ、僕小さい頃から泳ぐのは得意です。走ったり、飛んだりは 駄目だけど……」
「おお、幸太様、御神楽の者は皆達者な泳者ですぞ。何しろ禊の折は……」
「銀鱗丸、ちょっと黙ってろ。ややこしくなる」
「……御意」あ、ちょっとしゅんとした。はじめ半透明だった体は大分実体の ように思えるようになってきてたのに、心なしかまた薄くなった気もする……。 ……って、あれ?僕もなんだか目眩が……。
「あ、それとな、銀鱗丸を実体化させるにはついている術者にも相応の力が要る。 妖力を使うのも然り。お前はまだ力が足りな過ぎんだよ。だから今日も銀鱗丸が お前を助けるために妖力を使った後に、おまえ自身が倒れたんだ。今は俺が力を 分け与えてやったから、曲がりなりにも半実体化させることが出来てるんだが…… そろそろ時間切れのようだな」
 えええ〜!? そ、そんな……じゃあ僕はしょっちゅう倒れたりしちゃうって 事? この白妖怪……どうしてもつけてないと駄目なのかな……。
「こ、幸太様!わたくしを、お見捨てにならないでくださいませ〜。遥か遠い古の 時よりの定めでございますれば……どうか、どうか、わたくしに御護りさせてくだ さいませ。雪乃さまとの約束はもう一つありまして……子孫を護ってやって欲しい との仰せ。どうか、どうか……」んなこといったってさあ……こんなに頻繁に倒れ てちゃ……、ってか今心読まれてたの? そう思い浮かんだ瞬間、ぶんぶんと首を 振り「めめめ滅相もございません!」と銀鱗丸。バレバレだっつーの。はあ。
「ま、諦めろ。おまえ自身が力を得ようと選択した以上こいつはいわばセット販売 だ。お前の力の源でもあり、力を消費する最大の要因でもあるわな。……そうでな くばさっき言ってたように記憶と力と、この銀鱗丸は俺が貰い受けることになる。 ……それは嫌だっつってたよなあ、お前は」にいぃ、とまたあのいやーな笑いだ。 くそ、こいつほんとに僕のご先祖様か? 僕の両親親戚一同はこんなに嫌な性格 は受け継いでないぞ〜!
「明日からビシバシ鍛えさせてもらう。……楽しみだなあ、オイ。あ、そうだ。 最初に言ったようにこのことは他言無用で、というか凛子には内緒な。あいつに は俺の過去は一切言うな。……特に、銀鱗丸」
「はい、御館様」
「それやめれ。俺の事は千尋様、と呼べ。お前は過去行方不明だった俺の前の 御神楽の守護獣ってことにする。こいつにくっついてたのは、そうだな、たまたま こいつが御神楽の傍流の血を引いていて人知れずこの家系にくっついてたってこと にしよう。俺とは大昔に面識があるってことで……いいな?第一あながち嘘じゃな いからな」
「承知いたしました。凛子さまと仰る方が当代の御神楽の御当主ですな。して、わた くしめは明日にお目通りがかなうのでしょうか?ぜひご挨拶致したく……。 清音(きよね)様の御血筋の 方ですからさぞや御美しゅう御座いましょうぞ」
「ま……見た目はな……。というか、お前暫らく出てくるな。この餓鬼の体が持 たん。それにお前は口が軽い。余計な心配は俺はごめんだ」
「御やか……いえ、千尋様〜!殺生な……数百年ぶりにようやっとの目覚めで 御座いますれば……わたくしもこの珍妙になった世の中をぜひ微に入り細に入り 見物したく……」
 この妖怪、観光でもするつもりか〜! 辺りをきょろきょろと見回し、何です か、この石壁は……高こう御座いますなあ、ここは城で御座いますか? だの、 奇妙な箱が今目の前を走り抜けましたが何で御座いましょう? だの……いや、 ただのビルの壁と電車なんだけど……と、うるさい事この上ない。……もしかし てさ、僕はこの変人、いや変妖白妖怪、銀鱗丸のお守り……ですか?
「そういうわけで、封し直させて貰うぞ。一度目覚めさせちまったから完全には 無理だが、いざピンチとなれば何とかして勝手に出てこられる程度の封印にしと く。ほれ、こっち来いがきんちょ」
「あのですね……僕にはちゃんと橋詰幸太という名前が……」言い終わらないうち に額にとんっと指を触れられ、その後右腕につつっと指を這わされると青い光とな った銀鱗丸が「あ〜れ〜」なんて思いっきり脱力しそうな声を上げながら僕の右手 の先からすうっと僕の中のどこかへ吸い込まれていった。……なんか……すごい 疲れた……。いや、体もだけど精神的に……。
 へなへなとその場にへたり込む僕を偉そうに見下ろす千尋に、僕は何の言葉も出 せなかった。疲れたんだよう〜。まさか、こんなことになるなんて思ってもみな かった。まだ御神楽の話を聞いていた時のほうが驚きが少なかった。だって、僕 が事件の当事者になるなんて……。
「……ま、そういうわけで、お前には迷惑なことかもしれんが……諦めてくれ」 ……なんだよ……それ。言うに事欠いて、そういう台詞を吐くか〜? ……まあ、 今日一日で色んなことがあったし、僕自身の事も思いもよらない事実が明らかに なった訳だけど……でも、まあ、仕方ないか。だって僕は僕でしかない。 知らなかった事だけれど、僕自身の真実が明らかになっただけだ。
「すっごい迷惑ですね。だって原因はあなたにあるんじゃないですか。いきなり 言われてはいそうですか、なんていう奴はいませんよ」千尋は今どんな表情をして るだろう。さっきみたいな後悔? 悔恨? 悲しみ? 僕は埃を払いながら立ち 上がった。まっすぐに千尋に向かい合う。その深遠の瞳、その奥にある何かを見 つめながら、僕はまた、ちょっと笑った。
「もちろん、僕以外には、ですけどね。言ったでしょう。どんな風であっても僕は 僕で、たとえ分からなくてもそれが真実であれば僕は受け止める、と。あなたは僕 の遠い先祖で、僕はあなたの遥かな子孫。受け継いだものがあるならば、それはは じめから僕の一部。誰にも渡す(いわ) れはありません。それがあなたであってもね、千尋」にいぃ、と千尋の笑いを真似し ながらせいぜい厭味ったらしく言ってやった。千尋はといえば、あ、くそ。本家本元 の厭味笑いを浮かべながら、ほう……だったら明日から早速地獄の特訓楽しみに、 な、だってさ。
 きっと暫らく僕はこの男には敵わない。それでも、いつか、見てろ! 僕はこの男 を超える。きっと。……なにで超えるのかはまだ未定だけどさ。

 僕たちは、駅前で別れた。辺りはすっかり夜の帳が下りて、空には星が瞬いて いる。少し風が生ぬるいけど、いい夜だった。僕の中の何かが変わって、でも何も 変わらなかった一日。御神楽の生きる世界に足を踏み入れた僕。でもその世界は僕 の生きる世界と同じもの。そうだ、何にも変わらないんだ。僕が僕である限り。 そして御神楽が御神楽である限り。僕たちは、この目に見える世界に生きている けれど、その中には見えないけれど存在するものはたくさんあるんだ。もちろん妖達 だけじゃなく。世界はなんて、広くて深くて面白いんだろう。僕はそんなとりとめも ないことを思いながら家路についた。

「うわあああっ!」  僕が疲れた体を引きずって帰り着き、一日の疲れを癒すべく湯船に体を沈めた 途端……なんだ〜!? 浴槽の水に何か翳が映っている……ふといやな予感がして 僕は右腕を湯船から出してみると……何だこれ。肩から指先にかけて白い蛇が巻き ついてる……!
「心外で御座いますな……わたくしです。それに蛇では御座いませぬ。よく見て 下さいませ。この立派な(たてがみ) が目にお入りにならないとは……御神楽の守護獣、白竜の銀鱗丸といえばそ の筋では有名なのですぞ」
 ああ……よくみると、ちっちゃいけど確かに竜だ……ってさ、お前封印されて たんじゃ〜!?
「わたくしは水を力の源とするもの。まあ、久しぶりの大量の水の匂いに誘われ ましてな……おお、これは湯ですな。幸太様は湯浴み中で御座いますか。これは また失礼を……」
 早く中に入ってくれ……そうじゃないと僕が……持たない……。
「おお、幸太様、如何なされました!?湯あたりなされたか?だれぞ居らぬか。 これ、幸太様が」だからさ、早く中に入ってくれっつーの! 大体僕以外には 聞こえないはずだろう?
 僕は何とか湯あたりだけは避けたい一心で湯船から這い出て……そして、脱衣所 まで到達したところで果てた。何とかタオルだけは巻いたけど……。まさか、この 先ずっとこれが続くのか!? ほんと勘弁してくれ〜! ああ、本当にこれから先 が思いやられる……。僕の体は、持つんだろうか。ふと浮かんだ、御神楽の顔。 そして、千尋の厭味顔も。くそ、負けないぞ〜僕は、僕は……!
 そこで僕の思考はいったん途切れた。そして、その数分後、家族に情けない姿を 発見されるまで、僕はその格好でぶっ倒れたままだった、らしい……。

一 水に映る翳 了
2005.11.30

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